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社長コラム『砂糖の価格をどう見るか??』~最終回~

 

 

③〜昭和初期から敗戦まで〜

 

(砂糖の生産と消費)


 

 


 

 

明治35

 

 

(1902)


 

 

大正2


 

(1913)


 

 

大正5


 

(1916)


 

 

大正10


 

(1921)


 

 

昭和元年


 

(1926)


 

 

昭和6


 

(1931)


 

 

昭和9


 

(1934)


 

 

生産量()


 

108,000


 

 

136,902


 

 


 

 

412,969


 

 


 

 

449,110


 

 


 

 

640,382


 

 


 

 

933,038


 

 


 

 

821,114


 

 


 

 

消費量()


 

  

データ

未入手
  


 

271,146


 

 


 


 

333,809

 

 


 

 

648,931


 

 


 

 

820,018


 

 


 

 

807,703


 

 


 

 

870,622


 

 


 


 

 日本の砂糖生産と消費は、大正期以降、消費が先行する形で伸びてきましたが、昭和期に入り台湾を中心とする国産糖の増産等により、需給は昭和6年に逆転し、年によっては経済状況の変化により増減はあるものの、概ね消費量を上回る増産傾向を示しています。

 

 戦前に於いて最高の生産量をあげたのは昭和13(1938)から昭和14(1939)の期間の168万㌧といわれ、その内の85%が台湾で生産されたともいわれています。

 

 また消費量についても昭和14 年が最も多く、116万㌧超(一人当り16.28kg)を記録し、この数字は平成15(2003)の一人当りの消費量18.9kgと比較可能な水準と考えられます。 

 

 現在の砂糖生産が、原料の多くを海外に依存していることから考えると、いわゆる植民地による産業とはいえ、砂糖に於ける自給自足が成立した時代が存在したことは、記憶に留めてもいいかもしれません。

 


 

 


 

 

砂糖()


 

 

ビール()


 

 

清酒(1.8)


 

 

白米(10kg)


 

 

初任給 (大卒)


 

 

昭和3

(1928)


 

 

42


 

 

41


 

 

220


 

 

233


 

 

70


 


 

 昭和3(1928)の物価は、上記のように砂糖42銭、ビール41銭、日本酒220銭、白米233銭といったところで、大正12年と比較して砂糖がおよそ15%、日本酒12%白米25%という具合に価格が下落しています。

 

 ビールはほぼ横這い、大卒給与は若干減の状況で、大正期の好景気とインフレにより上昇した物価や給与が、下落に転じ始めていることが見受けられます。

 

 大卒者初任給の比較で換算すると、砂糖1,200円、ビール1,170円、日本酒6,280円、白米6,650円となります。とりわけ明治後期以来高騰を続けていた米価が、一転大幅下落しているのが目立ちます。

 

 昭和2(1927)に発生した金融恐慌では、大正期の好景気により急成長した金融機関や、乱立していた弱小と思える銀行等を中心に全国規模で休業および取りつけ騒ぎが惹き起こされ、ついには政令によるモラトリアム(支払い停止)にまで発展しました。

 

 昭和元年から昭和2年にかけて行われた、政府による初めての家計調査によれば、平均的な給与所得者の1世帯1ヶ月の収入は13095銭といわれています。

 

 深刻な不況に入る直前の統計は、まだ比較的高い給与水準を示していますので、金融恐慌により社会の不況感が増しことは、昭和2年の豊作により供給過剰になった米価の暴落に拍車をかけ、さらに就職難や賃金の引き下げ、国家の緊縮財政といういわゆるデフレ状況を生み出すに至ったと思えます。

 


 

 


 

 

砂糖

()


 

 

ビール()


 

 

白米

(10kg)


 

 

初任給

(大卒)


 

 

昭和6(1931)


 

 

35


 

 

   35


 

 

210


 

 

50


 


 

 昭和4(1929)10月にニューヨーク株式市場で発生した大暴落は、世界経済に甚大な影響をもたらし、大恐慌と呼ばれるまでに発展しました。

 

 そんな状況の中、日本政府は大正9(1920)以来停止していた金本位制度への復帰を行い、デフレ政策を強化したといわれています。

 

 昭和5年になると農産物の暴落が続き、中小企業の倒産が急増して、いわゆる昭和恐慌が始まりました。物価は1年で17.6%下落したといい、昭和6年には懸案となっていた官吏(公務員)の減棒もついに実施され、デフレ不況は民間大企業で給与を半減させるまでに至ったといわれています。そのさなか、昭和69月起きたのが満州事変でありました。


 

 昭和6(1931)の砂糖の値段は35銭。昭和3年と比較して16%以上の下げ幅となっています。ビールは35銭でおよそ15%、白米は210銭で10%という具合に各々価格が下落しています。但し大卒者初任給の比較で換算すると砂糖とビールは1,400円、白米が8,395円となり、昭和3年と比べると価格自体は大きく下落したものの、収入も減少したため、一時的にはやや価格上昇の印象を受けたと考えられます。

 

 昭和8(1933)に発表された第2回目の家計費の調査によれば、平均的な給与所得者の1世帯1ヶ月の収入は9223銭といわれ、前回の調査(昭和元年〜2)と比較して約30%の減少となっています。

 

 但しその間の物価の下落も大きく、とりわけ支出の中でかなりの割合を占める飲食費の減額は、昭和2年の暴落以降、約40%程度下落した米価に負う部分が大きいと考えられます。

 

 これは消費者の負担が相対的に軽くなった一方、生産者の疲弊が増大したものと想像するに難くなく、それにより地方農村部を中心に、社会的な不安定要素が拡大されたと考えられます。

 


 

 


 

 

砂糖()


 

 

ビール

()


 

 

白米

(10kg)


 

 

初任給

(大卒)


 

 

昭和11(1936)


 

 

40


 

 

37(昭和12)


 

 

325


 

 

7080


 


 

 昭和6(1931)に勃発した満州事変は、その後の政治・経済の両面において大きな影響を及ぼしたことはいうまでもありません。

 

 深刻なデフレ不況と緊縮政策の中、再度の金本位制停止を行った政府は、歳出の14%超という満州事変関係予算を成立させ、金融緩和と公債増発による財政規模拡大により、物価をインフレ傾向にして国内景気を押し上げる政策に転換したと思われます。

 

 さらに金本位制停止以後大幅に円安に振れたことにより、輸出産業が徐々に活況を取り戻し、また軍需予算の民間受注も増加したことから、昭和9年後半にはインフレ景気と思える状況が定着し始めたと思われ、昭和10年を含む家計調査によれば1世帯1ヶ月当りの給与所得は、都市部において昭和8年頃の水準に比較して1割程度上昇したといわれています。

 

 昭和11年の砂糖の値段は40銭、昭和6年に比べ14%程度上昇しています。白米は250銭で2割近い上昇となり、大卒者初任給の比較で換算すると砂糖1,140円、白米は7,140円となります。

 

 物価のインフレ傾向は進んではいるものの、給与水準も金融恐慌以前のレベルに戻ったと思われ、デフレ不況期と比較すれば支出に若干の余裕が生じているように考えられます。

 

 米については昭和8年から政府による価格管理の政策が強化され、インフレ局面でも急激な上昇が抑制されたと思われ、比較的低水準で推移していたと考えられます。

 

 但し、米生産者の側は依然として窮乏に喘いでいる状況が続いていたと思われ、そのような社会背景を受けてこの年の初めに起きたのが、東北出身者を含む青年将校が起こした2.26事件でありました。

 

 


 

 


 

 

砂糖()


 

 

ビール()


 

 

白米

(10kg)


 

 

初任給

(大卒)


 

 

昭和13(1938)


 

 

43


 

 

41


 

 

325


 

 

7080


 


 

 昭和12(1937)7月に起きた廬溝橋事件により、対外的には本格的な日中戦争に突入していく中で、国内経済は重化学工業を中心に拡大傾向を示し、物価は高騰しインフレを強めていったと思われます。

 

 昭和12年に編成された昭和13年度の国家予算は通常予算35億、支那事変関係費48億の計83億といわれ、昭和10年末の日銀券発行残高が176千万程度であったことからも、この予算が当時の経済規模からすると想像を超える大きなものであったことが推察出来ると思われます。

 

 昭和13年の砂糖の値段は43銭。ビール41銭、白米325銭といわれています。砂糖は7%程度、白米は20%超の上昇になっています。

 

 砂糖についてはこの時期、戦前に於ける最大の砂糖生産量を記録したことから、白米に見られるような大幅な価格上昇は増産によりある程度打ち消されたと思われ、その結果比較的小幅の上昇に留まったのではないかと考えらえられます。

 

 戦前に於いていわゆる自由経済による市場価格が存在したのはこの昭和13年頃までで、以後終戦時に至るまで、商品により前後はあるものの、統制経済の下国家管理の公定価格に移行することとなります。


 


 

 


 

 

砂糖

(公定価格)


 

 

砂糖(ヤミ)

価格


 

 

日当

(大工職)


 

 

初任給

(大卒)


 

 

昭和14(1939)


 

 

45


 

 

--------


 

 

268


 

 

70


 

 

昭和18(1943)


 

 

53


 

 

667


 

 

330


 

 

70



 

 

昭和18(1943)12


 

 

59


 

 

1333


 

 


 

 


 

 

昭和19(1944)


 

 


 

 

40


 

 

40


 

 


 

 

昭和19(1944)9


 

 

133


 

 

80


 

 


 

 


 

 

昭和20(1945)2


 

 


 

 

10667


 

 

35


 

 

80


 

 

昭和20(1945)4


 

 


 

 

180


 

 


 

 


 

 

昭和20(1945)5


 

 


 

 

21333


 

 


 

 


 

 

昭和20(1945)10


 

 

---------


 

 

240


 

 


 

 


 

 

 

 1939(昭和14)9月、ドイツが隣国ポーランドに侵攻したことにより、第2次大戦が勃発しました。

 

 欧州で戦端が開いたことにより、日本と中国大陸での権益を巡る英米等の列強との対立が一層深まることとなり、国内の経済も戦争遂行を最優先とした統制色の強いものに移行していきました。

 

 昭和15(1940)に入ると前年の米の不作に加え、軍需生産優先の状況に影響を受けたと思われる肥料不足と労働力不足により、食料事情は厳しさ増していったといわれています。その年の4月以降、米を始めとして味噌、醤油等が配給制度の中切符制となり、砂糖についても6月にはマッチと共に切符制に移行することとなりました。

 

 そして翌年の昭和164月には『生活必需物資統制令』という法律が出来一般庶民は多くの生活物資を配給切符で手に入れなくてはならなくなりました。

 

  昭和14(1939)の砂糖の値段は45銭といわれています。同年3月『物品販売取締規則第1条』が適用され砂糖の統制品として値段が指定され、4月には第一回公定価格が官報にて公示され制度が始まりました。

 

 昭和15(1940)6月には切符制が開始され、都市部を中心に一人当り1ヶ月 0.6(360g)が配給されることとなりました。

 

 当時の日本の人口が72百万人程度であるとすると、単純に年間で311千㌧支給される計算となりますが、昭和15年の総消費量(988千㌧)に対して家庭用消費の占める割合は25%程度であったと考えられることから、実際には一般庶民に家庭用として充分な量を配給すること難しかったのではないかと思われます。

 

 そんな中、昭和16年に東京での配給の基準となる調査台帳が不正申告による『幽霊人口』を40万人も含んでいることが判明したなどの配給制度下における混乱は、当時既に一般に拡がりを見せていた物資のヤミ()取引の温床になる可能性も考えられ、その後の公定価格とヤミ価格との著しい乖離が、昭和1612月の太平洋戦争へ突入していった状況の中で、深刻な物不足と戦時インフレを加速させていったものと思われます。

 

  昭和18(1938)の砂糖の価格は53銭といわれています。昭和14年と比較すると18%程度の上昇となります。

 

 前年の6月にミッドウェー海戦で敗北し、緒戦の勢いを失った日本は、同年3月のガダルカナル撤退等により戦局の主導権を米国に譲る事態となりました。

 

 国内に於いては、庶民生活は統制経済下、耐乏生活を強いられる一方、昭和13年以降顕在化した、ヤミ値による取引は軍事費膨張によるインフレ状況の中で、生活必需品を中心に年々広がりを見せ、日米開戦後には完全な二重価格の経済が現出していたと思われます。

 

 当時、公定価格で53銭の砂糖は12倍以上のヤミ価格が付いていたともいわれ、大卒初任給の比較で換算すると、現在では18,000円程度となり、地域的な差は考えられるものの、都市部に於いてヤミ値は一般的な給与所得世帯にとって簡単には手の出せない水準にあったと思われます。

 

 但し、戦時下のインフレ経済に関係の深い軍需産業や、徴兵により男手の不足していた食料生産者や建設、物流等の賃金は、日米開戦以降じりじりと上昇し、従来の常識的な水準を大幅に超えた金額に達しており、これがヤミ経済を支えた一因と思われ、庶民が配給に長い行列をつくる一方で、高い日当を手に入れた者等がヤミ物資を買い、公営競馬を始めとした射幸性の強い出費に精を出すという、バランスを欠いた社会状況が生まれていたと考えられます。

 

 昭和19(1944)の秋になると、戦況は益々厳しさを増し、外地からの供給を制限された国内の食料需給はいよいよ逼迫してきました。

 

 砂糖の公定価格は133銭で前年の倍以上となって配給物資の欠乏を窺わせるところですが、それに対し高騰するヤミ価格は80円といわれ高騰を続けています。

 

 これは当時の大卒初任給(75~80)の水準と変らないもので、これが実際に取引されていたとすれば、公定価格とヤミ価格の乖離は戦況の悪化と共に拡大して、常識的な物価の感覚から逸脱した領域に入り始めたと考えられます。

 

 

 

 昭和20(1945)都市部を中心とした米軍による空襲の被害が拡大していく中、砂糖の価格(公定)は前年並みの1円台前半であったようですが、ヤミ値は配給物資の流通が困難になる状況の中で暴騰を続け、年初には遂に100円を超えてしまい、東京が大規模な戦災を受けた後の4月には180円、さらに欧州戦線で連合国側の勝利が確定した5月には公定価格の実に160倍以上となる21333銭という値段が出ていたと云われています。  終戦直後に警視庁が発表したヤミ値の調査によれば、『米一升70円、砂糖一貫目千円』といわれており、それは米10kg467円程度、砂糖kg当り267円程度となり、当時としては有り得ない価格では無かったと考えられます。

 

 無理を承知の上で、現在の値段に置き換えるとすると、昭和20年から21年にかけての激しいインフレによる名目の所得金額が78倍に上昇した条件を加味しても、米は15万円(10kg)、砂糖は8万円超(kg当り)ということになってしまい、これはヤミ相場の大変な高騰ぶりに驚かされると共に、戦争末期の物資の欠乏状況に於けるハイパーインフレの凄まじさを、ヤミ取引とはいえ現在の感覚では到底信じられない食料品の物価によって痛感させられる状況であったと思われます。

 

 

 

 昭和20815日にポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本は、それまでに領有していた海外の資産を殆ど失いました。

 

 砂糖については国内消費量の85%以上を生産していた台湾からの供給が消滅したことにより、戦災を免れた配給在庫と暴騰したヤミ流通品を合せたところで需要を賄うことは到底不可能であり、とりわけ都市部に於いては主食の米の入手が困難なことにより芋などで代替していた状況もあり、戦時中に贅沢品と考えられていた砂糖などは一般庶民にとってかなり遠い存在となってしまったと思われます。


 


 

 


 

 

昭和18年度


 

 

昭和19年度


 

 

昭和20年度


 

 

昭和21年度


 

 

一人当り消費量


 

 

7.15kg


 

 

2.90kg


 

 

0.64kg


 

 

0.20kg


 


 

 配給ベースによる砂糖消費量の統計資料によれば、昭和18年度に1人当りの年間消費量が10kgを下回って以来、戦争末期に入り極端な消費減となっていて、終戦直後を含む昭和21年度に至っては僅か0.20kgにまで落ち込んでいます。

 

 この数字は戦前最高の消費量を記録した昭和14年度(16.28kg)80分の1となり、この頃の極度の品不足を数字の上からも推察できるものと思われます。

 

 このような戦争末期から終戦直後に至る過程の中で、統制経済の事実上の破綻とそれに起因するところの極度のインフレは敗戦によって頂点に達することとなり、終戦後の食料不足の大混乱を記憶した思われる一般庶民に、砂糖を含む欠乏しヤミで高値の付いた品目についての供給リスクに過敏になる傾向を生じさせたと考えられます。

 

 

 明治後期から昭和前期(大平洋戦争終結まで)の、凡そ50年間の砂糖の値段についてみてきましたが、時代により程度の差はあるものの、庶民にとっての砂糖は、全体的に『貴重品』或いは『贅沢品』と思われていた傾向があり、現在の安価なイメージとは、随分と趣の異なるものであったと考えられます。

 

 現在でも四国徳島県を中心に日本古来の製法により生産が行われているといわれる『和三盆糖』などは高価な砂糖と考えられ、高級和菓子などに使用されていますが、生産量が限られていることと、大量生産品では得られない特徴を持つことから、キロ当り数千円という値段で取引されています。価格形成の背景こそ違うものの、現在の和三盆糖の存在は、戦前の砂糖のイメージと些か重なるように思えます。戦後経済の発展により大衆化された砂糖を取り巻く環境の中で、かつての『貴重品』といった印象を今に残すものの一つであると考えるからです。

 

 また戦前の砂糖を考える上で重要と思われることは、砂糖事業が植民地産業の典型的な形態の一つであり、日本が台湾領有を契機として事業を拡大したことは、世界史的な観点からもそれ程特別なことではないと思われることです。16世紀以降、英国を始めとするカリブ海周辺に砂糖事業を立ち上げた国々は、さとうきびの生育に適した土地の領有と、安価な労働力(主に奴隷貿易による)の供給による生産というシステムをつくり、多くの収益を本国にもたらしました。

 

 明治後期まで海外糖に席巻されていた国内糖業が、戦前において遂には自給水準にまで生産を高めることが可能であったのは、典型的な植民地産業のシステムが背景にあってのことで、今では高水準と思われる値段も、当時の商品流通を考えれば他の商品と比較して飛び抜けて高いというわけではなく、むしろ昭和初期に至っては供給量の増加によって価格安定の恩恵を受けていた時期もあるように思えます。

 

 このように、近代日本の発展と共に拡大した産業システムも、敗戦というデフォルト状態によって殆どの機能を停止させてしまいます。砂糖における自給自足があり得た時代もまぼろしのように消えて無くなり、日本は再び外国産糖の輸入に依存する形に移行することになりますが、それにより戦後数度にわたり外糖相場の乱高下に翻弄されることになることを思うに、戦前の日本の糖業の到達点が、知られざる夢の時代としてのノスタルジーを感じさせるものであると私は思うところです。

 

 

 

*過去の値段について、現在の額に置き換えた数字等を紹介していますが、社会・経済の 状況の異なる時代との比較はもともと不可能と思われ、数字についての正確性は望めないものですが、価格のイメージを具体化するための手段として考えています。

 

*統計資料等の活用を優先しましたが、新聞記事や関係書等に依拠する数字が含まれています。また記述についても物価関係書を多く参考にさせて頂いています。

 

 

 

参考文献等

 

『物価の世相100年』岩崎爾郎著、読売新聞社、1982年。

 

『値段の明治・大正・昭和風俗史() 週刊朝日編、朝日新聞社、1987年。

 

『砂糖』足立己幸編、女子栄養大学出版部、1979年。

 

『ポケット砂糖統計1988』精糖工業会、1989年。

 

1988/89年版糖業年鑑』貿易日日通信社、1988年。

 

参考 WEB SITE

 

『神戸大学電子図書システム』新聞記事文庫。

 

『総務省統計局』各種統計資料。